講義を受けふと思い出したものがある。真っ赤な2つ折りの携帯電話。
小学2年生のとき塾まで電車で通っていた私を心配して、両親がもたせてくれたものだ。
10年ほど前、当時はまだ子供が持つのは珍しく
「特別なものを持っている」自分の中にもそういった意識があった。
ウサギのキャラクターと時計が表示されている少し粗くて小さな画面。
30秒程度の当時流行っていたJPOPの着メロと
家族の写真がデータフォルダに残っている。
それが最先端でなくなるまで、特別が当たり前になるまでそう時間はかからなかった。
それからしばらくたって高校1年生の時、私はクラスで1番にiPhoneを手にした。
その特別が当たり前になるのはもっともっと早かった。
SNSを通じて人間関係を形成し管理することができる。匿名性の強かった世界も今やリアルの生活と密接にかかわっている、これもいつしか当たり前になっていた。
簡単に友達を「追加」し「削除」することができる。
とても便利だが同時にとても怖くもある。
コミュニケーションツールが発達するに従って、人は誰かと直接コミュニケーションをとるのが下手になってしまったと感じる。
おいしい食べ物、素晴らしい映画、それらと出会った感動をボタン1つ押すだけで共有した事になるのもなんだかとてもさびしくもある。
膨大な量の情報は今向こうから勝手にやってくる。
そこから私たちは必要なものを簡単にひょいっと選ぶだけでいい。
情報の見極めを誤るあまり損をしてしまったり、自分にとって都合のいい情報のみを手にし真実から目をそらす事もある。
またそういった情報を手に入れるために、当たり前にそばにある四角い箱が、手元になくなってしまった時、私はどのようにしてどんな情報を得ることができ、どこまで遠くへ行けて、誰に電話をかけることができるだろうか。
当たり前というのは怖い。半年前をすでに懐かしくさせてしまう力のあるそれを、なくなった時の事など考えようなんて思わないからである。
機械に使われないように、程よい距離感を保って、上手に情報や手のひらサイズの世界とお付き合いし、使いこなしていきたい。
その方法を講義を通じて学んでいきたいと思っている。
P R